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「律様、お時間です」
低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 「……朝霧栞」 小さく呟いて、律はゆっくりと身を起こした。 傍らに置かれた黒い仮面を手に取る。 恐れられている方が、都合のいい場面もある。 近づけさせないことで、見られずに済むものもある。 鏡の中の自分を一瞥し、顔の上半分へ影を落とすように装着した。 それを、今ここで世間に正しく見せる必要はない。 「行こう」 その声に応じて、扉が音もなく開いた。◇
婚約当日。
如月本家の大広間には、親族や関係者が集まり、異様な熱気に包まれていた。 金屏風の前に、黒振袖を纏って座る。 背筋を伸ばし、膝の上で指先を揃えた。 着付け係が褒めた髪飾りも、重たい絹の感触も、自分のものではない気がする。 これは如月家が用意した、身代わりのための衣装だ。 周囲から、ひそひそ声が降ってくる。 「本当に、実の娘じゃない方が嫁ぐのね」 「榊家の当主って、顔に酷い傷があって、まともに歩くこともできないらしいわよ」 「如月家も、会社を救うために必死ねえ」 どの声も、こちらに届くようにわざと耳に届くくらい。 私は表情を変えなかった。 数メートル離れた席では、未央が司の腕に寄り添っている。 勝ち誇った笑みを浮かべ、こちらへ小さく口を動かした。 ――お姉ちゃん、ちゃんと尽くしてね。これはあなたが家に負った借りよ。 借り。 その言葉を、心の中で冷たく転がす。 二十四年間の私の人生を勝手に扱い、三年前に切り捨て、今また売ろうとしている家に、私が返すものなど何もない。 その時だった。 会場のどこかで、スマートフォンの通知音が鳴った。 一つではない。 二つ、三つ、十を超える音が、広間のあちこちで重なっていく。 ざわめきが生まれた。 誰かが息を呑む。 「これ……」 「昨日の夜?」 嫌な予感がした。 未央が口元を押さえ、震える手でスマートフォンの画面をこちらへ向けた。 映っていたのは、庭園で司に抱きしめられる私の姿だった。 音声はない。 私が抵抗している角度は、巧妙に切られている。 暗い庭、揺れる月明かり、司の腕の中に収まっているように見える私。 誰が見ても、婚約を控えた女が元婚約者と密会していたように見える映像だった。 会場の空気が、一瞬で変わった。 「まさか、榊様との縁談の前日に?」 「やっぱり、育ちが……」 「如月家も、とんだ女を差し出したものだな」 言葉が、刃のように飛んでくる。 未央は涙ぐんだ目で私を見た。 「お姉ちゃん……どうして。司さんは、私の婚約者なのに」 司が青ざめた顔で立ち上がる。 「違う、これは――」 「司さんは黙っていて!」 未央の声が震える。 本当に怯えているのか、そう見せているのか分からない。けれど、こちらを見る目だけは濡れていなかった。 隆一の顔は怒りで赤黒く染まっていた。 「栞、お前はこの場で何をしてくれたのか分かってるのか!」 「またか。お前は、最後の最後まで如月の顔に泥を塗るのか」 私は膝の上で指を握った。 違う。 そう言えば言うほど、映像は私を嘘つきにする。 三年前と同じだ。 誰かが用意した証拠と、泣く女と、怒鳴る父。 また私は、何も聞かれないまま裁かれようとしている。 その時―― 重厚な大扉が、ゆっくりと開いた。 会場が、水を打ったように静まり返る。 漆黒の車椅子の車輪が、床を軋ませる音が響いた。 そこに座っていたのは、黒い三つ揃えのスーツを着た男だった。 体躯は大きく、仕立ての上からでも分かるほど引き締まっている。 けれど、その顔は目元を除き、黒い仮面に覆われていた。 榊律。 噂だけで人を黙らせる、榊グループの当主。 黒い仮面の奥の瞳が、まっすぐ私を捉えた。 嘲笑も、侮蔑もない。 ただ、こちらの傷を見落とすまいとするような、冷たいほど確かな意志があった。 誰もが息を殺す中、律はゆっくりと会場を見渡した。 黒い仮面の奥で、目元だけを細める。 「ずいぶん、手の込んだおもてなしですね」 低く、静かな声だった。 それなのに、その一言だけで、広間の誰かが椅子を引く音まで遠くなった。 車椅子の車輪がカーペットに沈み、金具が小さく鳴った。 スマートフォンを掲げていた親族たちの手が、少しずつ下がっていく。未央の肩が小さく跳ね、隆一の唇が強張った。 黒い仮面の奥で、律の目だけがこちらを向いている。 助けに来たのだと、一瞬だけ思った。 けれど、その視線は甘くなかった。冷たくも、優しくもなく、こちらが何を選ぶのかを待っている目だった。 会場へ向けた言葉のはずなのに、なぜか私だけに問われているように聞こえた。 「つまり、私の花嫁の心には、まだ別の男がいるということですか?」――私は大丈夫。しばらく一人にして。 送信には時間がかかった。 既読はつかなかった。 その頃、司は会場の救護室前で、未央の行き先を聞いていた。「九条側で保護したとしか伺っておりません」 会場スタッフの返事は、丁寧だった。「保護って、どこへ」「個人情報に関わりますので、こちらからは」「俺は婚約者です」 言った瞬間、自分の声が虚しく響いた。 婚約者。 その言葉は、もうどれほどの重さを持っているのだろう。 さっき、未央は自分に来ないでと言った。 その前に、自分は未央のことを疑っていた。 さらにその前、三年前には、栞の電話に出なかった。 司は手の中のスマートフォンを強く握った。「桐生様」 背後から、相良さんの声がした。 司は振り返った。 相良さんは責める顔をしていなかった。むしろ、いつもと同じ、礼儀正しい距離のまま立っている。「未央様の所在について、こちらも正式な情報は受けておりません。九条側へ照会は入れますが、即時回答があるとは限りません」「栞は」 口から出てしまってから、司は後悔した。 なぜ、ここで栞の名を出すのか。 相良さんは一度だけ司の顔を見た。「朝霧様は、会場側の事情確認に応じておられます」「そう、ですか」「桐生様」 呼び止められ、司は顔を上げた。「今、誰かを助けたいのでしたら、見てないことを見たと言わないことです」 静かな声だった。 司は返す言葉を失った。 三年前、彼は見ていなかった。 なのに、見ていないことを、見た人たちの側に立って信じた。「……分かってます」「そうですね」 相良さんはそれ以上言わなかった。 相良さんが去ったあとも、その言葉が残った。 司はスマートフォンを握り直した。 九条家の代表番号へ電話をかける。受付は丁寧だったが、未央という名前を出した途端、確
流れていく街の明かりが、窓のフィルム越しに鈍く滲む。さっきまでいた会場から離れるほど、胸の中の怒りが少しずつ形を変えた。 車内は静かで、タイヤが路面を拾う音だけが続いていた。 怒りではない。 焦りだった。 栞は声を荒げることさえしなかった。 涙を見せることもなかった。 未央を責める言葉ひとつ口にしなかった。 ただ、記録を求めた。 あれでは、未央の方がひどく幼く見える。 倒れたのは自分なのに、なぜそうなるのか分からない。 スマートフォンを取り出すと、秘書が声をひそめた。「申し訳ありません。到着までは外部との通話をお控えください」「どうして」 その問いは、誰にも拾われないまま落ちた。未央は視線を下げた。「混乱を避けるためです」 未央は男を睨んだ。「誰から言われたの?」「九条康生の指示です」 康生。 その名を聞いただけで、張りつめていた肩から力が抜けた。 あの人なら、どうにかしてくれる。会場の映像だって、きっと何とかする。栞がどれほど手順を守っても、見る人が見なければ、映像はただのファイルだ。 そう思いたかった。 車は都心から少し離れた、静かな通りに入った。 到着したのは、ホテルではなかった。古い洋館を改装した会員制の滞在施設のように見える建物だった。看板はない。門柱には、小さく九条関連の管理会社名だけが刻まれている。 中へ入る時、未央は名前を書かされた。 如月未央。 その横に、利用目的として「休養・安全確保」と印字されている。「これ、何ですか」「滞在記録です」「署名しないと入れないの?」「手続き上、必要です」 男の声は、こちらの苛立ちを受け流すほど丁寧だった。 その丁寧さが、かえって腹立たしかった。 未央はペンを握った。手元が少し震えている。署名欄の上には、外部連絡の一時制限、施設内での面会は管理者承認制、情報漏洩防止のため滞在場所を第三者に伝えないこと、という文言が並んで
九条家の秘書が「保護」と言った瞬間、私は未央の方を見た。 救護室の消毒液の匂いが、廊下まで残っていた。 医務室の扉の奥で、彼女は肩に薄い湿布を貼られていた。泣いた後の顔で、けれど目だけはまだこちらを探している。 私は近づかなかった。「九条側に渡していいんですか」 思わず高瀬さんに聞いた。「本人が同意すれば、止められません」「同意してるように見えますか」 高瀬さんは答えるまでに間があった。 その沈黙で、答えは分かった。 律が横で静かに言う。「康生は、逃げ場を差し出す形が上手い」「逃げ場」「本人が選んだと思える場所ほど、あとで出にくい」 その言い方に、さっきの「安全確保」の書類を思い出した。 未央を助けたい、とは思わない。 あの人は、私を何度も壊そうとした。三年前も、今日も。 目の前で別の檻に入れられていくのを見て、胸がすっと軽くなることはなかった。「私は」 言いかけて、やめた。 私は、何を言おうとしたのだろう。 止めたい。違う。助けたい。違う。ざまあみろと言いたい。たぶん、それも違う。「記録だけ、残してください」 結局、そう言った。「未央さんが九条側へ移動した時刻、同行者、本人確認、同意の有無。分かる範囲で」「分かる範囲から当たります」 高瀬さんは頷いた。 高瀬さんはすぐにメモへ落とした。◇ 未央が九条家の車に乗った時、まだ膝は痛んでいなかった。 肩も、本当は少し擦っただけだった。 救護室で冷却材を当てられ、念のため医療機関を受診するかと聞かれたが、彼女は首を横に振った。病院へ行けば、診断書が残る。診断書が残れば、痛みの場所も、程度も、全部記録になる。 今の未央には、それが少し怖かった。「こちらへ」 九条家の秘書だという男が、後部座席のドアを開けた。 車内は広く、革の匂いがした。窓には薄いフィルムが貼られていて、外から中は見えにくい。未央は
映像が残っていた安堵と、残っていなければまた疑われたかもしれない悔しさが、同時に押し寄せた。 敷物の上では、車椅子の音さえほとんど吸われていた。「朝霧さん」 律の声がした。 私は画面から目を離さずに答えた。「見ています」「目は逸らしていません」「ちゃんと、見ています」 自分に言っているのかもしれなかった。 映像確認が終わると、会場側の法務担当がモニターから目を離して言った。「現時点の映像上、朝霧様による接触は確認できません。正式な事故報告書では、第三者による強制的接触なし、と記載する方向で整理します」 第三者による強制的接触なし。「医務室の記録は」 高瀬さんが確認した。「救護記録として保存します。診断行為じゃありませんが、本人申告の痛みの部位、処置内容、搬送の希望有無は残ります」 会場側の法務担当が答える。「未央様は外部医療機関への搬送を希望されませんでした。ただし、後日症状を訴えられた場合に備え、救護室での初期対応記録は封緘します」「ありがとうございます」 私が頭を下げると、法務担当は視線を落とした。 この人も、面倒な場に巻き込まれているだけだ。 でも、巻き込まれた人が手順を守ってくれたことで、私は三年前と同じ底へ落ちずに済んだ。「朝霧様」 高瀬さんが、今度は私へ向き直った。「この件について、こちらからSNS等へ発信することは避けます。会場側の公式報告、必要に応じた法的照会、関係者への通知に留めます」「その形でお願いします」「未央様側から虚偽の発信があった場合は、反論可能な形で準備します」 私は頷いて手帳を開いた。会場側の法務担当も、手元の書類へ目を落とした。 法務担当が保全番号を読み上げた。高瀬さんが一度だけ復唱する。 私は手帳へ番号を書いた。最後の数字でペン先が引っかかり、紙に小さな穴が開いた。「すみません」「急がなくて大丈夫ですよ」 法務担当が一瞬だけ笑い、すぐ仕事の顔へ戻った。
十分ほどして、高瀬さんが入ってきた。 換気口の低い音だけが、窓のない部屋に残っていた。 顔はいつもと同じ冷静さだったが、目元だけが少し硬い。「会場側の初期確認が出ました」 高瀬さんはテーブルに資料を置かず、まず口頭で告げた。「閲覧は別室で、関係者と法務担当の立ち会いのもと行います。映像のコピーは現時点では渡されません。保全番号だけ先に発行されました」 保全番号を聞き取り、私は手元のメモに書いた。「お願いします」 私は頷いた。 今は、こちらの手続きが済むのを待つしかない。 今ここで動画を奪って拡散すれば、未央と同じ土俵になる。 やがて、会場側の法務担当と警備責任者が入ってきた。 大型モニターではなく、確認用のノート端末が一台だけ置かれる。録画ファイルの再生前に、閲覧者名、目的、時刻が記録された。 画面の中には、階段の全景が映っていた。 私が立っている。 未央が近づく。 袖を掴もうとする。 私が両手を上げる。 触れていない。 未央が、一歩、自分で横へずれる。 足元を見ていない。 手すりに肩を当て、膝をつくように崩れる。 大きく転げ落ちてはいなかった。 それでも、彼女は床に座り込み、すぐにこちらを見る。 画面の中の私は、動いていなかった。 警備責任者は、もう一つの角度の映像も開いた。 階段の横ではなく、ロビーの天井側から撮ったものだった。人の頭で一部は隠れている。それでも、私と未央の距離は分かる。 私の足は、最後まで床の同じ位置にあった。 未央が袖に手を伸ばし、失敗し、自分で一歩ずれている。 未央の肩が手すりに触れた瞬間、彼女の顔が画面に映った。 痛みではない。 驚きでもない。 見られているかを確かめる顔だった。 私は無意識に、紙コップの縁を押さえた。 水面が小さく揺れる。「……止めてください」 声が出た。
見たものと、見ていないものを分けることだ。 階段脇の花器に活けられた葉が、空調でわずかに揺れた。「……分かった」 司は、低く言った。 その声には傷ついた響きがあった。けれど、私はそこまで抱えるつもりはなかった。 救護スタッフが膝をつき、未央に触れる前に名乗った。痛む場所、転倒時の意識、頭部を打ったかどうか。確認は淡々としている。 未央は「肩が痛い」と言った。 膝ではない。 さっき押さえていた場所とも違う。 救護スタッフは一度だけ未央の顔を見た。「念のため、医務室で確認します。歩けますか」「……怖い」 未央は、また私を見た。「栞お姉ちゃんが、近くにいるから」 昔なら、そこで周囲が私から距離を取っただろう。 けれど今回は、会場責任者らしき女性が一歩前へ出た。胸に財団の運営スタッフを示す名札がある。「では、朝霧様にはこちらの職員と一緒に、別室でお待ちいただきます。未央様は救護班と医務室へ。双方の接触を避けます」 未央の顔が曇った。会場責任者は、私と未央を別々の方向へ案内した。「公式映像の保全については」 私が聞くと、女性はすぐに頷いた。「会場側で対応します。事故報告に必要な範囲で確認し、個人情報に関わる部分は法務担当を通します。榊様側の担当者にも、手続きについて共有します」「お願いします。映像は残しておいてください」 頭を下げた。 その時、未央が小さく笑った。 泣いた顔のまま、唇の端だけが動いた。「手慣れてるのね」 聞こえたのは、たぶん私と律だけだった。「そうですね」 私は答えた。「三年前に、何もしなかったので」 未央の目が細くなった。 その先は言わなかった。 救護スタッフに支えられ、未央が医務室へ向かう。司が一歩ついていこうとして、未央に睨まれた。「来ないで」「未央」「あなたは、また栞を見てたじ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
朝の光は、厚いカーテンの隙間から細く入り込んでいた。 廊下の遠くで、車輪の金具が控えめに鳴った。 目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。 天井が高い。 壁紙の色も、枕の沈み方も、昨日までの狭い部屋とは違う。 掛け布団は軽すぎるほど軽く、肌に触れるシーツは、洗いたての水気が完全に抜けた匂いをしていた。 私はしばらく、息を殺していた。 誰かの家に泊まったのではない。 嫁いだのだ。 正確には、まだ書類上の妻ではない。けれど、如月家はもう私を差し出したつもりでいるし、榊家は私を受け入れた形になっている。 そのどちらも、まだ少し遠い。 ベッド脇